タンを詰まらせ母が救急搬送された件

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いつも当ブログをご訪問いただきまして、ありがとうございます。昨日は危うくブログ更新ができないところでした。昨日のこと。

いつも通り4:30に起床しパソコンでプログ更新。6:00過ぎに体温を測りスマホで会社にメールをしたら、電話の着信。

母の老人ホームから、繰り返しの電話。何かあったのだ。

すぐさま、老人ホームに電話すると、痰をのどに詰まらせ、意識が有る状態で救急車をよんだ、やっとさきほど受け入れ病院が決まったと、病院名を確認しました。

その時点では救急車をよんでから2時間経過しています。場合によっては処置が間に合わない。心配停止であればタイムリミットは20分。

そんことを妄想しながら、会社の二人の上司に電話して休暇を取得。課長はでないのでメール。兄にも電話。出ないのでメール。

今日(11/11)の旅行と来週の旅行もキャンセル。大事だと渦中で忘れそうなんで温泉旅行どころでもないんで速攻キャンセルしました。

ソコからはとにかく急いで駅に向かう。いつも出勤で利用している時刻の電車。駅のホームで待っていると070の着信のあった電話からの電話。

老人ホームの所長からであった。搬送先の病院の説明をしている。けれど、さきほど施設スタッフに確認済みなので、半分放置気分で聞き流す。

すると、最後の病院名が違った。こともあろうに、介護スタッフに3回確認した病院名がまちがっていたという。

所長もすこし頼りない感じ。話を続けると搬送先の病院に来ているという。ソコでしっかりと病院名を確認して向かいます。

有料老人ホームには真面目で福祉精神のしっかりとしたスタッフはいます。そこに混ざるようにして仕事の集中力がないのんびり屋さんがいます。

大宮駅から乗り換えて与野本町へ。

こんな場面で運転手と雑談しないのが普通だろうか?わたくしはタクシーの一期一会の出会いが好き。これまでに和やかにならなかったことがホボありません。

運転手のみなさんいい方々がホントに多い、横柄な感じってホボありません。「安全運転っていいですよね。わたくしの運転と似ています。・・・結構遠いんですね。・・ああ、この病院来たことある・・」

母が救急搬送されたことを話しながらタクシーで15分。さいたま市民医療センターに7:20に到着。夜間通用口の警備員から入館証を受け取り総合受付へ。

名前を告げると、「熱があったんで防護服着用の準備をしています。1か月以内での接触はありますか?」と問われた。ありません、と返答。

7:30、玄関から病院スタッフが続々出勤してくる。50分受付で待たされるが、日勤スタッフが対応出来るまで待つかもしれない。

さいたま市民医療センターは、与野本町駅からタクシーで15分 以前来たことがある。土曜日に母の急病で自家用車できたと思う。どんな症状だったか思出せない。

付き添いの所長の携帯の電話に気づかなければ、スタッフが間違って伝えた病院に向かっていた。最初に聞いた病院ではなかった。

付き添いの所長の携帯の電話に駅のホームで気づかなければ、この時間にココにはいなかっただろう。老人ホームの所長に受付を済ませたと電話で報告。30分待っている時点で引継ぎを電話で済ませるために再度電話。

24時に喉に痰が詰まっている様子を介護スタッフが確認。3時には息が苦しそうなのをスタッフが確認し、提携医師に確認すると、救急車を呼ぶよう指示があった。

介護スタッフにも救急車でも、大丈夫大丈夫と母は言っていたという。

PCR検査の結果を待ち、陰性で有れば、対応不要。結果を待っているのだろう。

8:32診察室まえに促される。8:40に当直の女医さんから説明を受ける。

コロナは陰性だが、4日間の検査をもってコロナ検査を終える。病名は肺炎。左右の肺炎にカゲが有るMRI画像で説明を受ける。

抗生物質投与治療をするが、病状が悪化する場合もある。酸素吸入をしているという。

延命治療はしないと署名。予め母と話し合い済み。

認知症がある為、治療の妨げとなる場合、身体拘束することに同意署名。3階に上がると、ベッドで寝ている母が病室に向かう廊下で遠目で姿を見させてくれた。

血色は悪くない。あごを上向きにして静かに寝ていた。救急車中でも「大丈夫、大丈夫」と母は言っていたという。

医師の診断では両側の肺の炎症で軽くはないという説明。病室のある3階の待合個室へ。ベッドが壁際に2つありテーブルが1脚、椅子が4つ。救急搬送された家族の待合室なのだろう。

結局4-5枚の同意書と入院での消耗品の契約書の署名をし、廊下以外での母をガラスごしで見ることもできなかった。

わたくしはモー母の死を覚悟しています。結果として母が長生きしたとしてもです。その時々の、できうることをしてきたし、これからもソーしてゆく。

父は突然に亡くなったけれど。俗に言う「親孝行」しなかった後悔はありませんでした。いまも同じ感覚。

30歳までは「親には親の独立した人生がある、オレには別な人生がある」と考えていて、おやの面倒をみる気は一切なかった。

ところが、35歳くらいから親の面倒を最優先にしてきたところがあります。なぜか?よくわかりません。

両親の、その親(わやくしの祖父母)対する親への思い、といったものを受け継いではいない。ひとり思索する中でたどり着いた独自の考え方。

「親孝行したいときには親は無し」というフレーズが嫌いでした。ソーしないことにしたかった。若くして親を亡くした子は世間でいう親孝行を最初から任されていないので後悔はあたらない。

親孝行のカルマがないから。

母の「大丈夫、大丈夫」は、老人ホームのスタッフにも告げられ、救急車の中でも告げられていました。

母は自分の死を受け入れている。

救急搬送したことは間違いなく正しいうれしい対応です。

けれど、本質的には過度な延命治療のような、母にとっては自然ではない何かがあったのかもしれない、とも思うのです。

ふりかえると、色々と好ましくはない対応などもあるけれど、上司の心よりの「お大事に」や目を赤くして病院に駆けつけてくれた所長、タクシー運転手、介護士さんと看護師に担当医の方々。

いろいんな人のお世話になって、ありがたい1日でした。

何か不測の事態・事故があったにしても、誰に対しても、クレームを入れる気はわたくしには全くありません。ソー決めているからです。

《ブッダのことば》病と死に対する心構え

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