瞑想というと、剣道の稽古の後の黙想が私の初体験。高校生の頃、部活はバドミントン部だったのに、剣道の朝稽古を体育の授業の延長ですると周知され、朝5時に起床して寒げいこをしたことがあります。
正座をしてじっとして目を瞑る。あまり考えずに時を過ごす。
自律神経失調症のようなところがあったので、何か瞑想のようなものにその後も興味がありました。座禅にも興味があったけれど、道場に行く勇気はなかった。
一時テレビでも有名になったサイババさんの書籍を多数読んで、光明瞑想というろうそくの炎をじっと見る瞑想もしました。
美輪明宏さんの言う、太陽をイメージした瞑想のようなことをしていた時期もある。佐藤愛子さんの著書の「こんなふうに死にたい」を読み、神道系の太陽を拝む、ということをしたことがあります。
チベット密教の、マントラの音源を録音して聞いていたこともあります。湯島鍼灸院の五味彰先生は毎朝瞑想していると聞き、瞑想の導入では般若心経が良いと聞き、般若心経を諳んずることもしてきました。
なんで続かなかったのかな?
ある程度気持ち良い感じはしたけれど、どこかで胡散臭さがあったのかもしれません。合理性とか理性の部分がない。人格の成長ではなく欲望の追求のような感じが性に合わなかったように振り返ります。
神社を詣でる、お参りする、手を合わせる、ということが好きだった時期がありますが、お参りして手を合わせたことも一種の瞑想なのかもしれません。
ネット検索すると、ある起業家の社長は毎朝、自分がなりたい将来像を思い描いて瞑想する、という方がいたりもします。
忌み嫌う何かを払うようなことも、こうありたいと念じることも瞑想なのだとわたくしは思います。受験の試験の前に手を合わせて念じるように必死だった受験生は、少なくないでしょう。
お葬式で手を合わせたり、仏壇や神棚に手を合わせることも広い意味で瞑想なのでしょう。
ヴィパッサナー瞑想は、歩く体の感覚を感じる、おなかのふくらみと縮む感覚を感じる、という瞑想法です。
念じない。
念じるのは慈しみの瞑想というマントラで、ヴィパッサナー瞑想は、考えない、念じない瞑想法。雑念、妄想を思った時には、「妄想妄想」と言って気づいて妄想を消してゆく。
実際にしてみるとわかりますが、かなり難しい。弱い心が何とも多いことかと感ずる。
できる範囲で生活に取り込むと、自分では気づかないうちに、苦しみが減っていたりします。
たとえば、いつもは、あの人のあんな言動で気持ちが揺れて怒りが湧いていたのに、最近は平気でいられるナ・・・、といったような感じ。
こうした、さりげない、なにげない、飛段ではない、じわっとした感じは合理的で理性的で私にはあいます。
デジタルの時代になって久しいです。
問題の解答というものが、目に見えて記されたりすると、それが解答であり問題が無くなる。1回の解答1個の解答しか知らない、ということが常識化されています。
正解とはそうしたものだとしか認識できない。同じ言葉であってもどんどんとわかる、という解の出方がある。
たとえば、スマナサーラ長老のおっしゃる、「人は死ぬ」という事の意味が、だんだんと違った意味で分かりだす、という事が私にはあります。
無常ということは、言葉の意味を辞書で引くと書いてあるけれど、誰もしらない。なぜならば、無常がわかっているならば覚者になっているからです。
わたくしにはもちろん、未だに無常というものがわかりませんけれど、以前よりは違った感覚で知ることができているように感じます。
繰り返すから深まる。
窓の扉の開く度合いが増すようにして、段々とわかり方が変わります。繰り返す事で解答が変わる。
そんな瞑想法が、ヴィパッサナー瞑想です、たぶん。
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