初期仏教だけが別格なようです

ヴィパッサナー

いつも当ブログにご訪問頂きありがとうございます。半袖の人も見かかる関東周辺、みなさんいかがお過ごしですか?

テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老はクリスチャンのかたとの対談本も出版されています。

「どのような宗教を信じていても、慈しみの瞑想やヴィパッサナー瞑想は効果がある・・・」というお話しをされていて、実践したキリスト教のかたの感想を交えた対談があります。

万能薬のような宗教が初期仏教なのだとわたくしは考えてきました。じつは、初期仏教=上座部仏教=南伝仏教=小乗仏教=テーラワーダ仏教では、魂といったものはない、としています。

人間心理を分析し切った結果、「ない」とわかったようです。

最近おもうことの1つには、魂を無意識に信じてしまっている人が多いな、ということです。

ふだんは、魂といったものは信じていないと自分でも思っているけれど、固定した人格のようなものはどこかで信じている感じってします。

会社での人間関係でも、悩んでいるのがわかります。原因を観察すると、その人が引っかかるのは、変わらない性格、持って生まれた何かがある、と信じているから。

性格が変わるような感じだと「よくわからない人だ!」となるようなのです。根っこに「魂のような変わらない固有の人格・性格のようなものがあるに違いない。」とおもっている。

ソコに引っ掛かってしまって悩んで苦しんでいるのを見かけます。わたくしからは、なにも言わないけれど。

なぜ? どこで信じたのか?

というと、人それぞれでしょうけれど、西洋心理学では「自我」やら「真我」などと定義していますよね。フロイトもユングも。

そうしたことを知らない人ならば、歌詞やテレビの何気ない話しや小説や映画などなど、あまたにある、なにげない言葉から、なにげなく吸収したのだとおもいます。

日本人って「言霊」を受け入れるようなトコありますでしょう? わたくしもカツては信じてましたもん。

血液型占いなんかも、星座などの占いもソーでしょうか。持って生まれた性格というか人格がある前提でのものがたり。占いは信じていないけれど、なんとなくは気になっている。という人は普通に多いとおもいます。

ヴィパッサナー瞑想を教わると、手のしびれた感覚や足のしびれた感覚をしっかり感じるようにと教わります。

その感覚だけしかない。

なのにソレを「魂」と呼んでいる。ようなのです、一般的に。

「どのような宗教を信じていても、慈しみの瞑想やヴィパッサナー瞑想は効果がある・・・」のだとおもいます。

けれど、最期の時に、大きな間違いをしてしまって、自己犠牲こそ素晴らしい生き方だとおもってしまうと、大逆転のようにして低次元に自らを落とし込むようなのです。もったいない。せっかく初期仏教に近づけたのにね。

自己犠牲って日本の戦中にもありました。21世紀の一部の他宗教にも英雄視する傾向があります。ジャーナリストでも戦場で亡くなると英雄視するような感覚ってあります。わたくしもソーでしたからわかる。

初期仏教って単純だな、と思ってきました。論理的でむつかしい部分もあるけれど、理性的であれば単純におもえました。

けれど、自己犠牲というキーワードで眺めた時、もっとも異端で別格な教えがお釈迦様の教えなのだと、フト気づきました。

哲学ではないんです、初期仏教って。現実だけしかない。普通の人ではわからない現実には宇宙法則があるのです。わたくしはまだ知りません。

宇宙法則って人知を超えています。

でも、お釈迦様の教えは、宇宙法則の中にあっての人間の幸せなのです。そして、究極の人間成長を成し遂げると、人間を卒業するのです。

決して転生しない。

世の中にはスーパーな特殊技能のある人はいるようです。たとえば、物質化する能力。でも、そのひとは禅定に入ってから、長くそこにはとどまることはできずにふつうに戻る。

初期仏教では常時禅定のままでいられる。

その解脱への方法も伝わっています。そして、21世紀にあっても、究極の人間成長を成し遂げたひとがいるのです。

方法を受け継ぎ、実践して成功したひとがいる。それが真理だと証明し続けているようにわたくしには思えるのです。

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