私が育った家庭には仏壇はありませんでした。そして、神棚も。父が次男だったからです。
初期仏教に出会う前に、一人住まいをしていた私の家には、仏壇が置かれ、神棚が置かれるようになります。
若いころにはそんなことを考えたことはありませんでした。神棚なんか意味はない、仏壇?といった感じ。
初めてブログを立ち上げて、文章を書きだす前には神棚に礼拝し柏手を打つと、書き出す前には思ってもいなかったような内容で文章が書ける。そんな感じがしていました。
由緒ある神社でお祓いしてもらうと、何かが軽くなる感覚があった。参拝すると清々しい。その延長線として自宅に神棚を祀りました。
仏壇は、先祖供養というものがしたくなったのです。何か自分の祖父母以前のご先祖様に手を合わせることで、自分の生きている勤めのようなものを果たせる気がしたのだと思います。
初期仏教では、「神は人間が作った幻想です・・・」と言われています。なので、以前のようにして氏神様を信じるようなことはなくなりました。
ヴィパッサナー瞑想を少していると、たとえば、深夜にビルの誰もいない場所で、自分を追いかけてくる物音がなくなった。
確かに聞こえたハズの不思議な音が、ヴィパッサナー瞑想を少ししたら全く聞こえなくなった。何かの怯えが音の幻想を引き起こしていたのだと思います。
今年も初詣には行っていません。
でも、毎朝、神棚に手を合わせます。仏壇にも。
意味はないのかもしれない。
1つ言えることは、神社でも神棚にでも、だいぶ前からお願い事はしなくなりました。「ありがとうございます。」という感じ。エネルギーを受けるというよりも与えたい、ベクトルが普通の反対でした。
なにか、健康や運を良くするために祈るのは、かっこ悪いし、むしろ、神様やご先祖には感謝するのが本当のような気がしていたのです。
今はどうしているのか?
というと、「生きとし生けるものが幸せでありますように。」と神棚にも仏壇でも同じようにしています。
神もいないし、ご先祖様も仏壇に宿ってはいないでしょうけれど、習慣のようにしています。
以前は感じていたような何かといったものを今では全く感じません。神棚にも仏壇からも。
でも、止めるタイミングもない。
こうした習慣を細かく分析したりもしません。
いつか止めるのかもしれない。こだわりはあまりない。
瞑想の拠り所の別な1つの塚のようにして、これからも神棚の仏壇が生活の1部になるような気がしています。日本人特有の文化。
神棚も仏壇も日本人として生まれたからこそ今家にあるのです。
文化というものは、普通の日本人として自然に関わるということであれば、害はないでしょうし、自然な習慣として良い気がしています。
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